鎌倉・南北朝・室町時代の町の変化
鎌倉・南北朝・室町時代の町の変化
それまでは平安京が都市の基本となっていたが、度重なる火災・戦乱・政治の変化によって次第に町並みが変化してくる。 文化や町並みの担い手も、貴族・公家から武家・やがては町衆へと変化していく。
鎌倉時代になって武家政権が関東の鎌倉に誕生すると、京都の町からも人・ものが流出した。京都に残るものも当然いて、 特に天皇を中心とする朝廷も京都に残った。 鎌倉と京都は離れているため、鎌倉幕府は京都の公家勢力を監視するために 京都の六波羅に 六波羅探題という役所・役職を設置した。 ただ、形に残る資料は少なく、六波羅という地名のほかは具体的にどのあたりにあったのかはわかっていない[6]。 六波羅探題の内部構造もわからない。 六波羅には六波羅門という、六波羅探題の門を移したと言われる門があるのだが、そのことを裏付ける史料も無い[6]。
幕府から朝廷へ、あるいはその逆に、そして商人たちの往来のために京都と鎌倉の間には街道が整備された。 鎌倉も京都に比べて小さいとはいえ、大路を中心に作って都市整備をしたみたい。 鶴岡八幡宮は京都の内裏にあたる施設で、そこから南西に若宮大路が延びるという構造は 京都の都市構造を思わせる。近くだから行ってみようかな。
平安時代末期には、本来は都を守り学問をするための場であった延暦寺がすっかり荒れてしまい、武装した僧侶である僧兵 がほかの寺院と抗争を起こす有様だった。しかし中には真面目な僧もいたわけで、その一人が法然だった。法然はそのような 状況下で、民衆の救済を目指して新しい仏教「浄土宗」を開いた。このように、もともと比叡山で学問・修行をしていた 僧たちが各所に散って、様々な仏教が開かれた。この時期に開かれた仏教は鎌倉仏教と呼ばれ、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、 道元の曹洞宗、日蓮の法華宗、栄西の臨済宗などがある。金閣でおなじみの鹿苑寺、銀閣でおなじみの慈照寺はともに臨済宗の 寺院である。この時代にはまだ金閣・銀閣はないけれど。
鎌倉時代が終わり建武の新政が始まると、また京都を中心とする朝廷による政治が再開する。このとき役所が置かれたのは 昔内裏があった場所ではなく、鴨川沿いの二条富小路という場所だったらしい。 私はこのあたりの歴史には本当に疎くて、調べる中で建武の新政という言葉の意味を初めて知ったくらい ひどいものだ。建武の新政って3年しか続かなかったんだよね。鎌倉時代の後すぐに室町幕府が開かれるのではなく、 この間わずかな期間だけまた朝廷による政治が復活する、と。ウィキペディアにも資料[1]にも この富小路の役所について詳しい記述がなかったので、あまり遺跡みたいなものは出ていないのかもしれない。
その後足利尊氏により、 京都に幕府が開かれる。後に室町幕府の3代目の将軍である足利義満らによって、将軍家のあたらしい邸宅が京都の室町今出川付近に 作られる。これは花の御所と呼ばれ、現在は跡は残らず区画も変わってしまったものの石碑が置かれている。 花の御所を作ったのは義満だから、初代の尊氏がどこに幕府の中心をおいたのかも気になったけど調べきれなかった。 同じく京都のどこかであるのは確かだと思うんだけど。あと御所って天皇の住まいのことを指すのに、将軍家の邸宅を御所と呼ぶのは 何故なのかも未解決。
ちょっと長々と文章で説明してしまったので、地図で位置を確認してみよう。京都駅のちょっと東側を南北に流れるのが鴨川で、 清水寺の近くに鎌倉幕府が公家を監視するためにおいた六波羅探題があった。 鴨川沿いにもう少し北上したところに、建武の新政で後醍醐天皇が朝廷をおいた二条富小路がある。 さらに北上し現在の京都御所北西付近に、足利将軍家の邸宅である花の御所跡がある。
京都を代表する観光地であり、日本史の教科書にも確実に登場する金閣と銀閣は、 正式には「鹿苑寺・舎利殿(金閣)」 「東山慈照寺・観音殿(銀閣)」という。 今回の京都旅行で両方とも行ってきた。どちらも入山するときにリーフレットをもらえるんだけど、 金閣寺の方はきちんとリーフレットに「金閣 鹿苑寺」と書いている*1のに、 銀閣寺の方はでっかく「銀閣寺 東山慈照寺」と書いている*2のは どういうことなんだ…w どちらも室町時代の建造物だが、金閣は室町幕府3代目将軍の足利義満により作られたもの。 舎利殿(いわゆる金閣)の金箔で覆われた豪奢な作りは、北山文化を代表する建物である。 一方の銀閣は室町幕府8代目将軍の足利義政により作られたもので、銀閣と呼ばれる観音殿は2階建て・質素な作りをしていて、 金閣とは対照的に質素な造りで、東山文化と禅宗文化の結合を見ることができる*2。
金閣寺に代表される北山文化は、鎌倉時代末期に始まり、室町時代に開花した文化で、公家文化と大陸文化を基調としたもの。 金閣寺をはじめ北山文化は武家独自の文化ではなく、公家文化へのあこがれが現れたものとされる[4]。
金閣は3層立てで、それぞれの層の建築様式が異なる。一層目外部には金箔は貼られておらず、二層目・山荘目には金箔が貼られている。 (ちなみに現在の金閣は昭和になって放火に遭い、その後立て替えられたもの。昔の金閣には二層目に金箔がなかったらしい。) 第一層は先ほども紹介した寝殿造、第二層は武家造り、第三層は中国風の禅宗仏殿造という建築様式がそれぞれ使われていて、 全体でそれが調和している*1。って言われても、中が見えないんじゃわからないよなぁ。一応写真は 「金閣寺 内部」とかで画像検索すると出てくるんだけど、特に第三層内部の写真は美しいを通り越して不気味ですらある。 ほかにもエピソードがいろいろあるから、興味がある方は各自で調べてみよう。
一方の銀閣は2層立てで、こちらも一層目・二層目で建築様式が異なる。第一層は書院風の作りで*2 [1][4]、第二層は唐様仏殿の様式。 書院造は後の和風建築の基礎となる様式で、 武士・僧侶・貴族の住宅に取り入れられて発達した[4]。 書院造のほか、茶、粥・膳立て・食器などの日本料理の原型、素襖・ 小袖の着流しなど、衣食住に関わる文化が現代にもつながっている[4]。 室町時代に発達したこの文化は東山文化と呼ばれる。
銀閣は書院「風」の造り。「風」ってなんだよって気になったかもしれないけれど、文献3つ調べてどれも「風」って 書いてあるんだよなぁ。おそらく書院造の定義があってそれに合っていないんだろう。 それにしても、学校で「書院造の代表は、銀閣」って習った気がするぞ。
ウィキペディアの慈照寺の記事によれば、 銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られた痕跡も見つかっていない。銀箔を貼る計画があった[4]とも、 それ以外の理由で銀閣と呼ばれるようになった*3とも言われている。 [4: p.125]によれば、足利義政は銀閣を建てるのに7年も費やしたが、財政難で銀箔を貼れなかったらしい。 それで良かったと思うよ。お昼寝するなら金閣より銀閣だもの、絶対。
応仁の乱は、1467年から11年もの間続く戦乱で、京都はその戦場となる[4]。 原因は結構複雑に絡んでいて簡単には説明できないので省略するけれど、結果として京域の1/3ほどが消失する。 聖護院、仁和寺、青蓮院などの大寺院はこれで被災してしまう[1]。 この間に室町幕府の権力はどん底まで落ち、下克上の風潮がひろがって戦国の世が始まることになる。
応仁の乱の戦闘を避けるため、公家や僧侶を始め人々は京都から各地へ避難した。公家は避難先で、京都をモデルにした都市を建設する のだが、これは小京都と呼ばれる。また、それまで宮中の行事であったひな祭り・七夕などが 一般に広まるのもこれがきっかけだとされる[1]。 京都から堺に逃れた織物職人がそこで外国の織物技術を学び、京都へ戻ってはじまったとされるのが西陣織である[1]。
応仁の乱により京都の町は大きな被害を受けるが、文献[6]によれば 「京都市街の大半が焼けた というのは過大評価」だという。 その理由として、まず火災件数が多いのは応仁元年と応仁2年だけでその後の文明年間は件数が激減していること、 そして上京には東西両軍の本陣があったため戦闘も激しかったが下京はさほどでもなかったこと、この2つを挙げている。 たしかに下京が焼けてしまうと、何万という軍を支えた経済の中枢が無くなってしまうことになるし、 その後の町衆による復旧(後述)もうまくいかなかったかもしれない。
京都に限った話ではないが、戦乱が続く中で農民たちは自衛のため、集まって自治をするようになる。これを惣村または惣という。 惣が集まって惣村連合・郷・組となり、惣村連合が拡大して惣国一揆となる(一揆というと農民が集まった武装集団のイメージを持つかも しれないけれど、必ずしも武装を必要とするわけではないみたい)。惣国一揆の中で、京都の山城国に1485年にできたものが山城国一揆である。 山城国一揆は自分たちを「惣国」と名乗り、 翌年*4、宇治の平等院に集まった。 平等院は889年創設でこの時代にできたわけじゃないから、そこは注意。 領主の介入を許さず、警察や裁判などについて自治をしたことが特徴で、山城国一揆の影響は各地に広がっていくが、いずれも 短命に終わってしまう。
応仁の乱で焼けてしまった京都市街の復興にあたったのも市民であった。彼らは町衆と呼ばれる。 市民はこのころ、通りを挟んで向かい合う両側を生活の単位として意識していて、これを町という。 町には構と呼ばれる囲いや、釘貫(木戸門)、櫓などを設けた。 町がいくつか集まって町組となり、これは京都の市民による自治組織として機能した[5]。 また、町衆による信仰を背景に町組の人々が集まる場となったのが町堂である[1][5]。 応仁の乱で寺院が焼けてしまい新しい宗教も登場し、町堂はその信仰の中心となった。 革堂、六角堂、因幡薬師堂などが町堂の中でも大きく発展し、 現在も寺院として残っている(中世の史跡地図も参照)。 町堂は市民により運営され、町組は次第に力をたくわえていった。町堂の鐘は、有事を町衆に知らせる役割を持っていた[6]。 金閣寺、清水寺など京都を代表する寺院は京都市街の外周部に集中しているイメージだけど、 これらは市街地のど真ん中にある。現在京都の市街には無数の寺院があるけれど、それら1つ1つの歴史を 探っていくとなお面白い。これらは今回京都に行く前に調べなかったから、横を素通りした可能性があってもったいない...。 さらに町組がいくつか集まって、上京・下京などの惣町を形成する[5]。 平安時代には坊を一単位として生活していたが、この頃には町が生活の単位となり、町組や惣町が地域の共同体となっていた。
こうして荒れ果てた京都は町衆たちの活躍により復興し、京都の文化は貴族中心の文化から町衆の文化へと変わっていく。 代表的なのが祇園祭で、 応仁の乱により33年間の間中断していた祇園祭も町衆たちが主体となって復活した[4]*5。 祇園祭は現在まで、京都の夏の風物詩として続いている。
室町幕府の力はすでに衰えており、各地の戦国大名の中には、 京都に上って幕府や朝廷の力を借りて全国に号令しようとするものが現れた。 その中で、全国統一の先駆けになったのが織田信長である[4]。
織田信長が京都へ入った頃、京都の市民は上述のように町組を中心に自治をするようになっていた。 町組を中心に町衆が結束することは戦国武将にとって都合が悪いことだったので、織田信長は上京に火を放ち、 およそ6000から7000戸が焼けてしまう[2]。 織田信長は、抵抗するものには武力を用いて圧倒し、戦国武将の力を見せつけようとした。 町衆は抵抗するも、最終的には武力で圧倒されてしまう。町衆たちの活躍で復興した京の町も、また焼けてしまったのである。 また、当時の将軍であった足利義昭が織田信長の言うことを聞かなくなったので、織田信長は彼を京都から追放し、 室町幕府はついに滅亡した。
織田信長は京都に、入京後しばらく決まった拠点を設けなかった[7]。 東福寺、清水寺、妙覚寺、相国寺、本能寺などの寺院を転用して拠点の代わりにした[7]。 これらの寺院には織田信長の命によって堀を巡らし、順次防御を固めていったのだが、 本能寺の防御がまだ不十分な段階でそこに宿泊した際に家臣の明智光秀によって命を狙われた(本能寺の変)。 このときの本能寺は無くなってしまい、後に豊臣秀吉によって移転された。
豊臣秀吉は京都の城下町化をはかるため、 また京都を復興させるために都市改造を行った。代表的な計画には以下のようなものがある。 いずれも地図上に位置を示してある。
まず、関白・太政大臣の役所である聚楽第*7を整備した。 聚楽第内部には5層の天守閣があり、外郭には大名屋敷が並び、外側には堀が設けられた。 聚楽第はわずか8年で豊臣秀吉自身によって取り壊され*6、 現在はその遺跡はほとんど残っていないが、残された各種の絵画に寄れば相当な豪邸だったらしい。
京都の町割りが豊臣秀吉によって変更された。それまでの正方形の区分けの中央に小路を設け、長方形型に変更した。 正方形の区分けだと中央部が通りに面しておらず有効活用できなかったが、長方形型にすることでそれが改善された。 さらに、市街の各地に点在していた寺院を集合させまとめて置いた。鴨川の西にある寺町通と、船岡山の南の寺之内 がそれにあたる。町衆は寺院を集結する拠点にしていたため、一括して監視・管理できたほうが都合が良かったのだろう。
京都の周辺を囲む土塁(土手)である、お土居も建設された。 お土居は現在は全貌を見ることはできないが、何カ所かにその跡が残っている。 平安京建設時には全体を囲む城壁は設けられなかったため、これが初めての羅城であったと言える。 秀吉がどういう目的でお土居を設けたのかははっきりしていない。防衛のためとか、鴨川の堤防としての役割があったとか、 洛中の範囲を明らかにするためとか言われている。*8 かつてお土居のあった位置や、現存するお土居の位置は 京都高低差学会さん作成のGoogleマイマップで確認できる。 お土居はブラタモリでも取り上げられたね。
大阪にあった本願寺(石山本願寺)を京都に移設したのも豊臣秀吉である。元々本願寺は京都にあったのだが、 豊臣秀吉が京都の城下町化をはかる一貫として移設を行った。なおこれは現在の西本願寺で、東本願寺ができるのは これより後のことである。
このページを作るにあたって参考にした書籍、ウェブページを列挙します。(京都編の参考文献はすべて共通)