街作りの始まり、平安京
街作りの始まり、平安京
京都が歴史の表舞台に立つのは平安時代のことである。長安を参考にして整備された都市「平安京」を中心にして京都の街作りがスタートする。 1000年以上前に建設された都市であるために直接わかる遺構は少ないが、地名や街路・寺院などにその跡をみることができる。 特に街路や名称にはその痕跡を強く残している。その後の街作りの基礎になったので、条坊制の仕組みだけでも理解しておくと 京都の町を歩くのが一気に楽しくなると思う。
学校で習うと思うけれど、平安時代とは794年から1192年までのおよそ400年間、政治の中心が京都の平安京にあった 時代のことを指す。平安京とは天皇の住まいである内裏を中心としてできた都市のことで、東西南北にびっしりと引かれた 街路が目を引く、とても整備された都市だ。
平安京は東西約4.5km、南北約5.2kmの大きさの長方形で、大路と呼ばれる大きな街路と、 小路と呼ばれる小さな路地が張り巡らされている。 上側の中央には大内裏とよばれる、天皇の住まいとその周辺(宮城)が広く場所を取っている。 大内裏の北端を東西に横切る一条大路、大内裏南端の二条大路から順に三条大路、 四条大路、…と九条大路までが東西の大通り。 対して南北の通りは、中央に朱雀大路、東端に東京極大路、 西端に西京極大路があり、そのほかにも大路はあるが名称は不規則である。 朱雀大路南端には羅城門(羅生門)があり、平安京全体の門の役割があった。ただ、平安京全体を覆う壁があったわけではないため、門を通らなくても 平安京の内外を行き来することができる。そのため、羅城門は専ら儀礼的な役割を担っていたらしい。門の意味無いじゃん。 この羅城門は芥川龍之介の小説 羅生門 *1で舞台となった門でもある。高校の教科書でもおなじみの小説なので、知っている方も多いだろう。 朱雀大路を中心として東側(大内裏から見て左側)は左京、 西側(大内裏から見て右側)は右京と呼ばれる。これらは現代にも名称の名残が残っている。 ふりがなをいっぱい振ってしまった。京都の地名・通りの名前って独特の読みをするものが多いよね。
平安京は図を見ても明らかなようにほぼ完璧な碁盤の目のような街路になっているため、住所の表し方もきわめてわかりやすかった。 これは条坊制といって、隋・唐(現在の中国)の長安の都市計画に倣ったもの。 東西方向に走る大路に囲まれた部分、たとえば四条大路と五条大路に囲まれた部分を条といい、この場合は「五条」とよばれた。 一方南北大路に走る大路に囲まれた部分は坊といい、これらを組み合わせて「五条三坊」などといって土地を表した。 このブロックをさらに東西方向に4つ、南北方向に4つに分け、その一つを町といった。 これらを組み合わせて、住所は「左京五条三坊十二町」などと呼んでいた[1]。 なんのこっちゃ。合理的っぽいけど少し複雑だなあ。 そもそも[1]と[3]で説明が少し食い違っているような気がする。
平安京内部には東市、西市という市が設けられた。 これらは日用生活品や食料品を買うことのできる市場で、物品の売買はここだけで行われた。 東寺、西寺という寺も同時に建設された。 現在でこそ京都の市街には無数に寺院が建ち並んでいるが、平安京の建設当初は京中に個人で寺を建てることは禁止されていたため、 これらはわずかに建立を許された寺だった。東寺・西寺ともに平安時代の建物は残っていないが、東寺は後にほぼ同じ場所に再建され、 現在でも面影を残している。
ここまでで平安京のある程度の作りがわかってもらえたと思うけれど、平安京の実際にあった位置を地図上で見てみよう。 …の前にちょっとクイズ。平安京の中心線であった朱雀大路は、現在の通りで言うとどこでしょう?答えは下の地図に書いてあるけど、 まだ見ていない人は前ページの地図に戻って確認してみよう。 二条駅や九条通、烏丸通など、当時から続く名称があるから、これらをヒントにして 探してみよう。
私は平安京について調べ始めたとき、朱雀大路の位置が全くわからず・勘違いしてしまった。 京都御所がある位置が内裏で、国道367号のある位置が朱雀大路だと思っていたら、全然違った。 朱雀大路のあった位置は現在の千本通と呼ばれる道路で、ほぼJR山陰本線の二条~梅小路あたりとも一致する。 二条大路のあった位置は現在の二条通のある位置とほぼ同じ。二条城南端にある大通りは別物。 当時の朱雀大路は幅84メートルもあったらしい[3]けれど、 現在はよくある商店街くらいの幅になっている。現代の高速道路の車線幅は3.5メートルらしい*2から、 片側10車線作ってもまだ余る位の幅があったのか。
先ほどから何度も「東西の通り」「南北の通り」と書いているが、地図を見ると本当にしっかりと東西南北に区画されている。 京都以外にもまっすぐな道路はいくつもあるが、ここまで見事に区画されている道路は日本国内では珍しい。 おそらく、、というかほぼ確実に、東西南北を意識して都市計画をしたに違いない。 朱雀大路を作る際、金閣寺の少し東にある船岡山という山を基準にして、南北方向に道を作ったと言われている。 確かに船岡山は朱雀大路の北側延長線上にある。船岡山からは、京都市街を一望できる[1]。 と言われているが、実際船岡山に行ってみると山頂はいい感じの角度の場所に木が生い茂っていてちょっと惜しい感じ。 京都タワーとかは見えて確かに穴場スポットではあるけど。昔は本当に一望できたのかもしれない。
朱雀大路の北端突き当たりにある、平安京で一番広い面積を占めている部分が大内裏。 地図と対応させるとその大きさが想像しやすいと思う。 大内裏そのものは天皇の住居ではなくて、ほかにも各種の役所があったり、 公的な行事を行う施設があった。大内裏の中にある天皇の住居は、 内裏と呼ばれ、大内裏の中央付近にあった。
地図で見ても明らかなように、元々大内裏があった場所には現在、普通に住宅や雑居ビルなどが立ち並んでいる。 建物も道も変わってしまい、その元の姿を想像することすら難しい。略歴でも見たように、京都は何度も火災に遭っていて 大内裏も被害に遭い、そのたびに再建を繰り返したが1227年の火災を期に再建はされなくなった[6]。 天皇は明治になるまで京都にいたので、その間はどこにいたかというと 現在の京都御所の場所にいた(ずっとではなく、何度か転々とした後のようだ)。現在の京都御所が皇居と定められたのは 1392年のことで、平安時代はとっくに終わっている時代だから、大内裏の雰囲気はあまり残っていない。 大内裏の雰囲気を色濃く残している(というか1895年に作られた)のは平安神宮で、平安宮の大極殿を少し縮小した上で 模している。縮小と言っても結構広いよ。あと一般の神社であることには違いないから入れないところも いくつかある。平安神宮はただのでかい神社なだけじゃなくて、平安宮の一部を模したものだと知ってから行くと また面白い。
平安時代の貴族の住居は、寝殿造と呼ばれる様式で造られている。大きな庭や池があるのが特徴的で、 正面には南を向く正殿(寝殿: 1)、左右には2つの脇殿(東対屋: 4・ 西対屋)が置かれた。正殿の後ろには後殿を置き、 その左右にも脇殿を設けた。正殿と東西の対屋は渡殿(7)という 廊下でつなぎ、それを池の方まで延長して釣殿(9)を設けた*3。 全部平屋だぜ平屋。タワーマンションなんか足下にも及ばない、贅の極みだよなぁ。
ウィキペディア日本語版の寝殿造の記事によれば、本来の寝殿造の建物は現存しないらしい。後に造られた 建物の中で、寝殿造に似せて造った建物はいくつかあるようだ。京都の大覚寺、仁和寺、鹿苑寺金閣1階部分などが それにあたる。
平安時代と言えば貴族の文化を思い浮かべる方も多いと思う。 ただ平安京の貴族の人口は150人程・家族を含めても700~800人ほどで、全人口の1%未満でありのこりは普通の人だった[6]。 さらに、ここで紹介したようなフル装備の寝殿造を完備できたのは貴族の中でもほんの一握りの人であり、 多くは規模・装備ともにそれ以下の暮らしぶりだった。ただ、それでも一般市民から見れば上等の家に住んでいた[6]。
現在の京都の地図を見ると、山陰本線よりも東側、つまり左京側が栄えていて、御所や京都駅などが集中している。 平安京ができて200年くらいたつ頃には、すでに右京は人が減って寂れてしまい、左京に人や建物が集中するようになった。 当初きっちりと区画された街路も、平安京の範囲を超えて外に延びたり、逆にいくつかの街路は消えて空き地になったり 田畑にもどったりした[1]。
平安京が公的に終わりを迎えるのは、1180年の福原京への遷都だった。福原京は土地が狭いとかで建設が進まず、 半年くらいで元の京都に戻ってきたらしい。だから教科書とかにも福原遷都って載ってなかったような 気がする... あれ?ちゃんと読んでなかっただけ?その間に神奈川県の鎌倉に幕府ができ、武家政権がはじまる 準備ができていた。
鎌倉に幕府ができる前後には「太郎焼亡」「次郎焼亡」とよばれる大規模な火災が発生、京域の1/3ほどが焼けてしまった。 大内裏も焼けてしまったが、朝廷は火災に遭っても大内裏の再建を繰り返した。しかし後の火災で、太郎焼亡でも焼け残った ほかの内裏の建物も焼失してしまうと、それ以降の再建はされなかった。 火災多すぎるでしょ。。まあ当時の建物は全部木造だし、消防車もないので、延焼を防ぐために 建物をぶっこわすくらいしかできなかった*4からなぁ。
このページを作るにあたって参考にした書籍、ウェブページを列挙します。(京都編の参考文献はすべて共通)